三池 史跡と戦跡

三池の戦跡めぐり
 三池の闘いの歴史は、交流と学習等で、ある程度理解されていると思います。三井
がいかにして独占資本になり、利潤が少なくなれば、CO患者やじん肺患者を切り
捨て、その上、大牟田・荒尾に公害と赤字財政を残し、労働者と市民にその付けを
残し撤退しています。その歴史を、資料・写真を参考に、探訪します。

<石炭の発見>
 文明元年(1469)将軍足利義政の時代、筑後の国、三池郡稲荷村の農民、伝治左
衛門が稲荷山で焚火をしたところ、黒い岩が燃え、この「燃える石」の話しが広が
り、石炭発見の伝承になっているといわれています。
 享保6年(1721)柳川藩家老小野晴信が平野山を開坑、嘉永6年(1853)三池
藩が生山(いもうやま)を向坂老之助(故向坂逸郎先生の曾祖父)により開坑して
います。(サキサカヤマとも俗称されます。)
 それ以降、明治6年(1873)まで、藩営・民営で採掘販売されました。その後、
三池・柳河瀋の坑道がぶつかり浸水等に絡み争いが起こります。これが元で官営と
なりました。明治20年4月21日(1887)官営から三井に払い下げ民営となりま
す。平成9年3月30日(1997)閉山するまで炭鉱労働者と家族が三井独占にたい
し、人間らしく生きるため、多くの闘いから、家族ぐるみの闘いに目覚め、長期抵
抗統―路線を勝ち取った歴史です。
* 資料・写真は三池炭鉱写真集を参考にしました。

<囚人労働が三井資本の基礎>
 初代・三井の事務長団琢磨(昭和7年3月5日血盟団員に刺殺さる)は、「囚人労働により莫大な利潤を上げると「三池炭山創業碑」に書いています。この碑は、笹林公園の一角にあります。以前、三池に学ぶ全国交流集会会場横の広場にあります。この公園は、メーデーや決起集会等に3万人以上が結集したところです。三井独占が、労働者の血と汗と死の犠牲により、莫大な利潤を上げ、三井の基礎を築いた歴史の碑です。
1960年5月1日第31回メーデーに4万人が
    「三池炭山創業碑.の前に結集
 明治政府は、明治20年4月21日付けの告示第51号をもって、三池鉱山の払い下げを決定しました。明治22年1月1日の現形をもって払い下げること(囚人も同時)になります。
 落札金額は、
  1番札-455万5000円佐々木八郎(三井)
  2番札-455万2700円川崎義三郎(三菱)
  3番札-447万5000円加藤総右衛門
  4番札-440万円三井武之助・養之助

 団琢磨氏が事務長になり、近代化を進める中で、多くの労働者が犠牲になりました。石炭の増産が化学コンビナートの発展となり、大牟田川の汚染と環境破壊がされました。
 故向坂先生の「大牟田川の話」の原点です。
 人口は20万人から13万になっていま
す。






三池闘争の拠点となった正門で、正門前が元三川支部でした。闘争中は、ピケ動員者とオルグの臨時食堂が増設され、医療班の仮診療所も設置され、衛生面と伝染病対策も徹底されました。三川支部には、常時、青年行動隊が緊急動員に備えていました。
 闘争後の1963年11月9日の三川大災害時には、怒りと悲しみに包まれたところです。それ以降抗議集会やCO闘争の座り込み・決起集会等が取り組まれました。
<ホッパー>

 ホッパーは、坑内から上がった石炭を貯炭するところです。三池闘争では、全国から廷べ30万人が動員されピケ小屋で寝泊りと民泊交流をしながらの共闘が取り
組まれました。このホッパーからの積み出しを阻止する攻防で、2万人のピケ隊と、1万人の機動隊が対決したところです。ホッパー前広場では、1960年、猛暑の7月
17日「安保体制粉砕、不当弾圧反対三池を守る総評九州拠点大集会」に10万人が結集しました。岸内閣を解散させ、交代した池田内閣は、安保闘争の盛り上がりの危機的状況から、闘争収集するため、中労委斡旋が出されます。こういう中で、「ホッパー大学」の学習会が開かれました。この学習会が「闘いは今から」という決意を新たにしました。今は、この、たたかいの歴史が失われようとしています。

指名解雇拒否者1,200名を守る総決起大会
ホッパー前で開かれた「1,200名を守り組織を強化する総決起」に15,000人が集まった。
1960年9月13日
現在のホッパーの跡地
<故久保清さんの碑>
 故久保清さんの碑は、三池と安保の闘いの中、1960年3月29口元四山坑正門前でピケをしていた久保さんが暴力団に刺殺された所にあります。
 当時の前日、28日三川坑に新労が強行就労し、多数の負傷者がでる事件があった翌日でした。市内周辺の暴力団がタクシーやトラックで乗りつけピケ隊に挑発をしかけましたが、警官は傍観したままで、整然とスクラムを組んでいたピケ隊に、棍棒で襲い掛かりその一人がアイクチ(短刀)で故久保清さんを刺したのです。すぐ近くの四山分院に運ぶ途中で亡くなりました。
 三池と安保闘争では樺美智子さんが殺され、暴力団をも巻き込んだ「総資本対総労働」の闘いのはじまりでした。
 現地に殉難の碑を建て、その後旧四山支部に正式に建設しましたが社宅立ち退きて、旧正門横に移設し、さらに、現在、三井グリーンランド横に、英雄なき113日の記念碑も一緒に移設しました。
総決起大会後故久保清さん殉難の碑に参拝する
太田薫総評議長・宮川睦男三池労組組合長・原茂炭労委員長

囚人墓地
<一ノ浦町囚人墓地>
細い四角の石が墓で番号のみが刻まれています。

<囚人墓地>
 過酷な労働により、災害と病で死亡しても引き取りがない遺体は囚人墓地にあり、戒名はなく四角の石に「番号」が刻まれ葬られています。以前は100基ほどあったらしいのですが現在は、バラバラに櫛の歯がかけたようにごくわずかになっています。
 この墓地は、永い間放置されていたのを「囚人墓地保存会」の有志が整備し、守り続けています。一ノ浦町と竜湖瀬町に残っています。
*墓前法要
  蓮心寺ほか市内仏教家の協力で、昭和44年8月13日墓前法要が行われたのが最初で、以後毎年8月10日蓮心寺で行われています。

   

鹿児島県与論島・島民の囚人労働的な苦闘の歴史
<囚人以下の労働>
明治30年(1898)鹿児島県与論島に台風があり、その後、干ばつと疫病・飢饉におそわれた島民は、やむにやまれず、ソテツに含まれる澱粉を処理不十分のまま食べ、毒にあたり死人が多くでました、「ソテツ地獄」といわれています。
 こうした状況の頃、長崎県島原半島南の口之津港から「石炭船積夫」の募集人が与論島に訪れる。当時は、大牟田川から船でロ之津港に運搬していた。有明海は干満の差が7メートルもあり大きな船が港に入れなかった。口之津港が三池炭鉱の玄
関口であった。募集人は「口之津は大変景気で、床の下からでも紙幣が飛び回るぐらいに金があるそうだ」と、うわさを流したと古老は話したという。
明治31年(1899)240人の島民が島を出た。最盛期は1、226人が移住した。ところが、来て見ると聞くとは大違いで、住まいは納屋で「板張りのゴサ敷きjの一間きりだった。
食事はイモ七分と外米三分の配給の他、味噌・蒔を買えばわずかしか残らない低賃金だった。
 明治40年(1908)三井の私港・三池港が完成した。(潮の干満に適応する開閉式)そのため、口之津より428人は、三川新港社宅に移住した。
 岸壁に横付けされた船に六尺棒の両端にかごに石炭を入れ、狭い30センチばかりの足場板の上を船倉まで運ぶ作業で昼夜をとおして続けられた。
 この過酷な作業は1960年三池闘争前後まで続いた。
 三井の差別政策と労務政策は、特殊部落あつかいと、劣悪な条件で生活し、働かされた。
 三池労組の闘いにより、昭和26年~30年に全員鉱員(組合員)となり三池の運動を取り組んできました。

<竜湖瀬町の囚人墓地>
竜湖瀬町の囚人堪地は、過酷な労働で死亡された囚人を仮埋葬し、散在していた遺骨を明治25年合葬したのが「合葬の碑」で、現在「順照寺」に移設されました。

<三池集治監>
 三池集治監(現在の三池工高)
北海道の網走刑務所より厳しいと言われたところです。長期刑の囚人が足に鎖をつなげられ、当時の七浦坑や宮原坑の坑口まで歩いたと言われます。重労働と不衛
生上の病気や粗末な食事のため神経衰弱で自殺等により命を奪われています。この過酷な重労働に反抗すれば、暗く狭い独房で厳しい罰が科せられ、無抵抗にさせてあきらめた囚人生活に追い込まれています。
 このような囚人数は、2、166人が入監していました。

 現在の県立三池工業高校(昔は三井鉱山の私立校で三井工業といっていました)校内には、1963年の三川災害で、定時制の学生が死亡され、その碑があります
<解脱塔>
解脱塔は、囚人が坑内災害で死亡しても引き受けのない
遺体を、明治21年8月(1888)浄土に成仏するよう祈っ
て監史員の手で建てられ、平成7年5月(1995)再建
整備されました。
 囚人延べ総数61、544人、死亡者総数2、427人です。
 塔の横に井戸の蓋がしてありますが、昔、囚人が死亡
すると遺体を投げ入れ、野犬が食い荒らし、遺体を放置
したものです。


<万田坑>(国指定重要文化財・史跡)
第一竪坑一明治30年11月23日開削  明治35年11月27日出炭開始
第二竪坑一明治31年8月24日開削  明治42年2月  出炭開始
     昭和26年9月1日三川坑口統合のため、三川坑、四山坑に配転される。
     坑内のダムと、揚水ポンプ保安要員を、1997年3月30日閉山まで配置
     する。
 大正7年(1918)検炭の不正・職制の横暴・物価の値上げの不満が暴動となり久留米連隊の弾圧となります。当時、熊本の旧制五高校の学生だった宮崎小市さん(東大卒後朝日新聞論説員となる。佐藤栄作と同期)は事件後、現場をつぶさに見て「あの騒動は条理があり筋目正しいものだった。職制の家の箪笥に隠してあった札ビラがずたずたに引き裂かれ、捨ててあった。「ひゅうとり」(労働者の意味)は貧乏であっても「泥棒」ではなかったと締めくくっています。当時、組織がない中で800予名がストに参加した、画期的な闘いといわれ、首謀者は処分されています。
向坂家の墓地
墓地は小高い丘の中腹にあります。
 向坂先生の祖父(黙爾)は、同志数名と脱藩して、明治維新の運動に参加してい
ます。いまの福島県のいわき市にある平城の攻撃に加わりましたが、足に負傷して、
故郷に後送され、その後は、村の有志を集めて、「寺子屋」で、教育に従事したよう
です。
 大分県の日田にいた有名な儒学者で、教育家の広瀬淡窓(1782~1856)の弟子で
した。この墓は、祖父(黙爾)の門下生たちが建設されたと学習会の時に話されま
した。
 先生が亡くなる前は、荒れて崩れそうになっていましたが、今は整備されていま
す。
 真ん中の大きいのが祖父(黙爾)の墓で、右となりが曾祖父(老之助)の墓です。
 【嘉永6年(1853年)藩が生山を開坑した時の人で、サキサカ山と俗称された
といわれる】
 墓地の後ろは、三池炭鉱の発展として化学コンビナート建設が拡大され、公害の
発生源となりました。公害病と、海水汚染による魚介類や水田米汚染が拡散され生
活を破壊してきました。
 生前、向坂先生が「川や、クリークでは魚が多くいたが、三井資本が大牟田川を
汚染させた」と必ず話されていました。
 墓地の横は、旧宮浦坑の坑口や、炭車・人車があり、宮浦公園となっています。


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